第二の環

第二の環「娯楽は生活必需品である」1

 一五歳の少年たちに対して非常事態宣を宣言する政府。自国の救済をサッカー選手たちの手に委ねる国。病院のベッドで「暴行」の犠牲になったと訴える警察官。ツリーハウスを建てた者たちに中止命令をくだす知事。一〇歳で児童館放火の容疑者とされたパリ東郊外シェルのふたりの子供。この時代を際立たせているのは、こうしたきわめて滑稽な状況の数々であり、新たな状況が生じるたびに、時代はそれに追いついていけないかのようである。人びとの訴えや憤慨を報じるメディアは、笑いをこらえるのに必死になっているはずである。じっさい、このようなニュースは爆笑によって迎えられるべきだろう。
 笑いを爆発させること。これこそ、時事問題が好んで提起するあらゆる深刻な「問題」への適切な応答である。手始めに、メディアによってもっとも言い古された話題を取り上げてみよう。ごく端的にいって「移民問題」は存在しない。いったい、生まれ育った場所にいまも住んでいる者、または、住む場所が職場である者がどれほどいるだろうか。祖先が生活していた場所で、なおも生活している人間などいるわけがない。そもそも、この時代の子供たちの両親すら定かではない。彼らを生んだのはテレビなのかもしれないのだから。じっさいわれわれは皆、いかなる帰属からも引き剥がされてしまっている。もはや出身地などなく、その帰結として、観光旅行に対する前代未聞の適性を身にそなえるとともに、否定しようのない苦しみを抱えることになった。われわれの歴史とは植民地化、移住、戦争、亡命の歴史であり、いっさいの定住に対する破壊の歴史である。そこには、われわれをこの世界の異邦人とし、家族にとってすら一介の招待客のごとき存在にしてしまう、そうしたことのすべてが記されている。われわれは教育によって言葉を簒奪され、流行歌謡曲ヴァリエテによって歌を、大衆ポルノによって肉体を横領されてしまった。警察によって都市を、賃労働によって友を奪われている。そのうえフランスでは一世紀来、国家権力の主導のもとで人びとの個人化が猛然と推し進められてきた。国家権力は若いうちから国民を採点、比較し、規律に従わせ、ばらばらに分断するばかりか、国家的なものから逃れようとする連帯を本能的に打ち砕く。そして、幻影でしかない共和国への純粋な帰属、つまりは市民権のみを存続させようとするのである。フランス人とは他の誰よりも剥奪された者、貧しい者である。フランス人が外国人に抱く憎悪は、外国人としての自分自身への憎悪とない交ぜになっている。たとえば「シテ」と呼ばれる郊外の移民街に対する恐怖の入り混じった嫉妬は、あらゆるものを失ったフランス人のルサンチマンでしかない。フランス人は「流刑地」と言われるそうした地域を羨望せずにはいられない。そこではいまだ多少なりとも共同の生が営まれ、人びとの絆も国家に依存しない連帯も生きているし、インフォーマルな経済活動も存続している。また、そこに存在する組織は、それを自己組織化した者たちの手からなおも離れていない。われわれはもう移民を罵ることでしか、つまり、自分が同じよそ者であることをはっきりと体現する外国人を罵ることでしか、自分をフランス人と感じることができない、それほどまでにわれわれは欠乏した状態に達しているのである。この国で移民は奇妙な至上権を有した立場にある。なぜなら移民がいなければ、フランス人なるものも存在しえなくなるだろうからである

 フランスという国はフランスの学校から作られるのであって、その逆ではない。われわれは過度に学校的な国に暮らしている。フランスで、ひとはバカロレア受験〔大学入学資格試験〕を人生の大きな節目として想い出す。年金生活者たちは、四〇年以上も前のあれこれの試験での失敗を話し、それがどれほど仕事や人生に重くのしかかっているか語ってみせる。一世紀半前から共和国の学校が育成してきたのは、国家によって統制された異様な主体性であり、機会の平等という条件のもとで選別と競争を受け入れ、選抜試験におけるように、各人が功績に応じた報酬を得られることを人生に期待する人びとである。何かに着手する前にいつも許可を求める者たち。押し黙って文化を崇め、規則を遵守し、クラスの優等生を尊敬する者たち。偉大な批判的知識人に対する愛着や資本主義に対する拒絶反応にさえこうした学校への愛が刻み込まれている。しかしながら、国家的主体性のこうした構築は、教育制度の退廃とともに日々崩壊してきている。ここ二〇年で路上文化が再来し、共和国の学校やその張りぼて文化と拮抗するようになった。このことは現在、フランス的普遍主義にとって深刻なトラウマとなっており、この点については、極右ともっとも辛辣な左翼がはじめから意見を一致させている。だが、フランス教育制度のいかがわしさを理解するには、植民地政策の理論家であり、パリ・コミューンを鎮圧したティエール内閣の教育大臣でもあったジュール・フェリー2の名がそこに付されていることを想起するだけで十分だろう。
 われわれ自身の話をしよう。「治安監視市民委員会」の一員などという得体の知れない教師が夜のニュース番組に出演して、彼らの学校が燃やされたと泣き言を並べていているのを見ると思い出すのである、われわれが子供だった頃、自分がどれほど学校を燃やしたいと夢見ていたかを。若者の一団による蛮行、すなわち路上で通行人を呼び止め、陳列棚から万引きし、車に火をつけ、機動隊といたちごっこをくり返すといった蛮行について、左翼インテリが悪罵しているのを聞くと、一九六〇年代に登場したブルゾン・ノワールや「ベル・エポック」時代に騒がれたアパッシュのことを思い浮かべてしまう3。当時世間は彼らのことをどう語っていただろうか。一九〇七年、セーヌ県裁判所の裁判官はつぎのように述べている。「再犯に走るごろつき、社会の敵、帰属も家族もなく、あらゆる義務を放擲し、人およびその所有物に対する大胆不敵な奇襲やテロ行為を行なう恐れのある危険分子を指して、アパッシュの総称で呼ぶのが当節の流行である」。住んでいる界隈の名を名乗り、労働を回避し、警察との対峙をくり返すこうした一団は、フランス式に個人化されつくした善良な市民にとっての悪夢である。なぜならこうした一団が体現しているのは、善良な市民があきらめたことのすべてであり、可能でありながら今後も決して知りえない悦びのすべてだからである。この国には存在してしかるべき無礼というものがある。自分の好きなように歌おうとする子供はかならず「やめなさい、調子はずれに歌うと雨が降るよ!」と言われてすげなく扱われるようなこの国、学校的な去勢が、文明化したサラリーマンを何世代にもわたって大量生産しているこの国においては。ジャック・メスリーヌ4のいまだ枯れることのないオーラは、彼の正しさや大胆さのためというよりも、皆が復讐すべきであった事がらに対して彼ひとりが復讐を断行したという事実に因っている。つまり、われわれが直接復讐すべきなのに、一時的な言い逃れをしては先延ばしにしているそうした事がらに対して、ということである。むろん、フランス人はみずから甘んじて受け入れてしまった圧政の復讐をあらゆるものに対してたえず行なっているのであり、このことに疑いの余地はない。しかしその復讐は、誰にも気づかれない程度の下品な行為や中傷の数々、ちょっとした意地悪な冷淡さや慇懃無礼な態度でしかない。「サツをヤッちまえ!」と言うのが「はい、お巡りさん」と言うのにとって代わる時はすでに来ているのである。この意味で、ある種の若者の一団がはっきりと示している敵意は、すべてのフランス人を憔悴させている居心地の悪さや根本的な悪意、またはそうした状況を打開する破壊衝動を、他のフランス人よりもほんの少し手加減のないやり方で表現しているにすぎない。

 われわれが生活してるこのよそ者同士の集合を「社会」と呼ぶことは詐称であり、社会学者さえも自分たちが一世紀来飯の種にしてきたこの概念を放棄しようと考えているくらいである。社会学者はいまではネットワークというメタファーを好み、サイバースペース上で孤立した者たちがいかに接続され、「同僚」「交際」「友だち」「関係」「恋愛」といった名で呼ばれる脆弱な相互関係がどう取り結ばれるかについて記述する。だが、そうしたものをネットワークと呼んだところで、それらは結局のところひとつのミリューとして固着してしまう。そこではコード以外何も共有されず、アイデンティティのたえまない再構築が行なわれるだけである。

 現行の社会関係のなかで死に瀕しているものをいちいち語っていては時間の無駄というものだろう。家族への回帰、カップルへの回帰が語られている。だが、回帰すべきというその家族は、過ぎ去った家族と同じものではない。家族への回帰とは、いまや支配的となった分断をさらに押し広げるものである。家族はそうした分断をごまかすために持ち出されているにすぎない。それゆえ家族自体がまやかしとなっている。誰もが身に覚えのあるように、家族パーティが年々開かれるたびに陰鬱さはつのるばかりである。あの必死のつくり笑い、皆が虚しくはしゃいでいるふりをするのを見たときのあのいたたまれない感じ、テーブルを挟んでひた隠しにせねばならないあの気まずい感情を、誰もが認めるはずである。ちょっとした浮気から離婚し、肉体関係をへてまた家族を再構成する。誰もが家族という物悲しい小集団の虚しさを痛感しているが、それでもまだ大部分の人びとは、家族を放棄することのほうがよほど惨めだと判断しているようである。家族とはもはや、母親の支配や家父長制による、口いっぱいにタルトを詰め込まれ窒息させられるような息苦しさのことではなく、何もかもお見通しの疲弊しきった依存関係に子供っぽく身を委ねることである。家族と過ごす時間とは、崩壊しかけた世界、そのことをもはや誰も否定できないような世界を前にして、それを気にかけないでいる時間のことであり、「自律する」ことが「雇い主を見つけ、家賃を払う」ことの婉曲表現であるような世界を前にしながら、それを気にも留めない時間のことである。ひとは家族の生物学的な親密さを言い訳として、われわれの少しばかり過激な決断が実行されないまま腐蝕していくのを放置しようとしている。そして大きくなるまで面倒をみたということを盾にとり、われわれが完全に大人になることを断念するようせまる。それは、子供だったわれわれが、真剣に物事を考えるのをあきらめさせられたときの言いぶりと同じである。家族によるこうした腐蝕からは身を守らなければならない。  カップルとは社会の完全なる崩壊をふせぐ最後の砦であり、荒涼とした人間関係のただなかのオアシスと言われる。ひとが「親密なもの」という加護のもとでカップルのうちに求めるのは、現代の社会的関係から完全に失われたもののすべて、つまり熱意、真実、気取りのなさ、劇場も観客もない生である。しかし恋愛による眩暈の時期を過ぎると、「親密なもの」はその古めかしい衣装を脱ぎすてる。つまり「親密なもの」さえも社会的な発明であることがさらけ出されるのである。それは女性誌や心理学の言語を話し、多分にもれず、吐き気をもよおすほどの戦略で塗り固められている。カップルのなかに特別な真実があるわけではなく、そこでも嘘と疎外の法則が支配的である。だが、幸運にも「親密なもの」のうちに真実が見出されたとき、その真実はカップルという形式さえも斥ける共有を呼び寄せる。この共有によって人びとは愛し合う。それはひとを愛すべき者とし、ふたりきりの自閉的なユートピアを瓦解させるのである。  じっさいは、社会的なあらゆる形式の崩壊は思いがけない好機である。それはわれわれにとって、新たな動的編成、新たな忠実のかたちを模索するための集団的かつ野蛮な実験を可能とする、理想的な状況なのである。昨今取り沙汰されている「親の責任放棄」は、われわれを世界と対峙するよう仕向けた。そのことによって、われわれは早くから明晰であることを強いられてきたが、いまやそれは素晴らしい叛乱を予感させる。性がぼろぼろに使い古され、男らしさと女らしさは虫食いの衣装をまとい、三〇年続いたポルノの革新が侵犯や解放の魅力をことごとく消尽してしまった現在、カップルの死のなかには、集団的情動の心をかき乱すような諸形式の誕生を見ることができる。われわれは親子関係のなかにある無条件なものを、ジプシーのキャンプのように、国家の干渉が入り込むことのできない政治的な連帯の骨組みへと作り変えたいと思う。多くの親がプロレタリア化した子供に与えざるをえない果てしない仕送りでさえ、社会転覆のためのメセナとなりうる。「自律する」とはつぎのようなことを意味する場合もある。つまり街頭で闘い、空き家を占拠し、働かず、熱烈に愛し合い、そして店から物を盗めるようになることである。


  1. 仏ヴィヴァンディ社の広告キャンペーン。同社は一九八〇年代のカナル・プリュス(仏最大手ケーブルテレビ局)への出資以降メディア・コングロマリットとなる。ユニバーサル(音楽)、SFR(通信)、アクティビジョン(コンピュータゲーム)などが傘下に置かれている。

  2. ジュール・フェリー(一八三二~九三年)はフランスの共和派の政治家。プロシア軍包囲下のパリ市長、パリ・コミューン弾圧後のセーヌ県知事をへて首相と教育相を歴任。一八八〇年前後に可決された一連の「ジュール・フェリー法」により六歳からの義務教育が開始された。

  3. ブルゾン・ノワールは六〇年代初頭のフランスのロッカーズ。黒の革ジャンにジーンズ、リーゼントというスタイルが一般的。アパッシュは一九世紀末から二〇世紀初頭のパリにおいて、路地裏で強盗などの犯罪に手を染めていた若者の総称。アメリカインディアンのアパッチ族が語源である。

  4. ジャック・メスリーヌ(一九三六~七九年)は戦後フランスの伝説的凶悪犯。六〇~七〇年代にかけてフランス、カナダ、スペイン等で逮捕、脱獄、強盗、殺人をくり返し、七八年には脱獄不可能と言われたパリのサンテ刑務所から脱獄を果たした。七九年パリで警察の一斉射撃により死亡。裁判中に展開した警察と司法権力への強烈な批判から彼を義賊と見る向きも強い。

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