出発!

出発!

 蜂起。われわれはそれがどこから始まるのかさえ分からない。歴史的変動が宙吊りにされ、治安が支配したこの六〇年、民主主義的な麻痺に見舞われ、出来事がマネジメントされつづけたこの六〇年。それによって、現実的なものに対するわれわれのある種の険しい認識が弱められてしまった。つまり、おのれが現在進行中の戦争のパルチザンであるという意識である。この認識を取り戻すことから始めなくてはならない。

 「日常治安管理法」1のように、違憲であることが明らかな法律が五年以上も前から適用されている事実に憤る必要はない。法に則って法の枠組みが内破されたことに対し、われわれが合法的に抗議しても無駄である。だからこそ、われわれは自己組織化を進めなければならない。

 なんらかの市民グループ、極左の諸々の行き詰まり、新たに発足される非営利団体の欺瞞に参加する必要はない。現行秩序への異議申し立てを標榜するあらゆる組織は、それ自体が国家の傀儡であり、ミニチュア国家としての形式、習性、言語を備えている。「別の政治を行なう」という漠然とした意気込みが今日までつねに奉仕してきたのは、国家的な際限のない広がりのみであった。

 もはや日々のニュースに反応する必要はない。必要なのは、それぞれの情報を、敵の戦略が推し進める作戦オペレーションのひとつとして解読することである。その作戦はまさしく、特定の人びとに特定の反応を引き起こすことを狙っている。ゆえに重要なのは、そうした作戦をこそ、表面上の情報に含まれる真の情報として把握することである。

 好機の到来、革命、核の黙示録、社会運動を待つ必要もない。これ以上待つのは狂気の沙汰である。カタストロフは到来するのではなく、そこにある。われわれはすでに、文明崩壊のうねりのなかにいる。われわれが態度を決すべきはまさしくその点である。

 これ以上待たないということは、なんらかの方法で蜂起の論理に参入することである。統治者たちの声に、決して解消されないかすかな恐怖の震えを聞きとることである。なぜなら統治するとは、数々の逃げ口上を並べて、群集が彼らの首を吊るす瞬間を先延ばしにすることでしかないからである。統治の行為とは結局のところ、民衆の統制を失わないための方策でしかない。

 われわれは極度に孤立した状態、極度に無力な立場から始めよう。蜂起のプロセスとしてすべては構築されねばならない。蜂起以上にありそうもないものはないが、蜂起以上に必要なものもない。


  1. 「日常治安管理法」(LSQ法)は、アメリカの同時多発テロをうけ二〇〇一年一一月に制定されたフランスのテロ対策法。たとえば、テロ行為の捜査の必要がある場合、通信事業者は一定期間の通信記録を保存できるようになったほか、警察は、特定の規定にもとづけば、身元確認や無令状捜索を強制的に行なうことができるようになった。

0 件のコメント:

コメントを投稿