自己組織化

自己組織化

これ以上働かなくてすむように自己組織化すること

 金になる楽な仕事は少なくなっている。しかもたいていの場合、あまりに多くの時間を消耗する。もっとも、退屈し続けるというのが実情だが。おまけに昼寝や読書をするには悪条件ときている。
 周知のとおり、個人の生存はあまりに希薄であるため、個人は自分の生を獲得する(=生計を立てる)必要があり、わずかな社会的生活と引き換えに、自身の時間を売り払わねばならなくなった。個人的な時間を社会的な生活のために費やすこと。これが労働であり、市場である。コミューンの時間はただちに労働から逃れる。労働の陰謀に加担するのではなく、労働以外のものを志向するのである。アルゼンチンのピケテーロ1たちは、フランスのRMI(社会復帰最低所得保障)に相当するものを集団で獲得した。条件とされたのはわずかな労働時間のみである。彼らは何時間も働くことをやめ、収入を持ち寄り、衣料工房やパン屋を手にいれ、必要な公園を作った。
 コミューンのために必要な金というものがある。生計を立てるためではない。すべてのコミューンには裏金があり、それを得るための手段は多岐にわたる。RMIに加えて各種手当、病気による休業補償、種々の奨学金、架空の出産手当、あらゆる不正取引、管理体制が変わるたびに現れてくるもろもろの方法。これらの手段の確保に固執すること、その場しのぎの避難所に身をおくこと、事情通の特権としてそれをいつまでも手放さないこと、こうしたことにわれわれは関与しない。重要なのは、脱法行為に踏み切ることのできる資質を養い、それを皆に広めることであり、革新的な手段を共有することである。コミューンにとって労働が問題となるのは、その他の既存の収入源にかかわる場合のみである。ある種の仕事や職業訓練、あるいは何かしらの恵まれたポストを通じて有益な知識が得られるならば、それらを利用しない手はない。

 コミューンが要求するのは、皆にできるだけ多くの時間を解放することである。だがそれは、賃金がらみのいかなる搾取にも汚されていない時間数だけで必ずしも計られるものではなく、時間が解放されたからといってヴァカンスになるわけでもない。空いたヴァカン時間、タイムロス、空白の時間、さらにその空白を恐れる時間、これらは労働の時間である。もはや埋めるべき時間は存在しない。あるのは、いかなる「時間」にも抑制されないエネルギーの解放である。諸々の線が描かれくっきりと浮かび上がる。われわれはその線を最後までゆっくりと辿っていくことができる、それがほかの線と交差するまで。

略奪し、耕し、生産すること

メタルロップ社2の元社員は看守になるよりも強盗になる。フランス電力の社員は、近親者に電気メーターを不正操作する技術を教える。「トラックから落下した」ことになっている機材があっという間に売りに出される。恥知らずであることを公然と認めるこの世界において、プロレタリアに多大な忠誠心を求めることなどできなかった。
 コミューンは「福祉国家」の永続性を当てにしない。だが他方でコミューンは、陳列棚から物を盗み、スーパーのゴミ箱を漁り、夜陰に乗じて工業地帯の倉庫に忍び込み、補助金を横領し、保険にからんだ詐取やその他の不正行為を行なうこと、つまり略奪によって生き永らえていくことも当てにしない。コミューンはしたがって、自律組織のレベルと規模をたえず発展させることに配慮しなければならない。工場閉鎖にともなって安値で売り払われる旋盤やフライス盤やコピー機が、今度は市場社会に対抗する何らかの共謀のために役立てられる。これほど理にかなったこともないだろう。
崩壊が間近だということはいたるところで鮮明に感じられる。現在、数え切れないほどの実験――建築、エネルギー、資材、非合法主義、農業において――が進行しているのはそのためである。そこには知識と技術の総体がある。あとは、モラリスト、社会のクズ、エコロジストといったレッテルが剥ぎ取られるのを待つばかりである。だがそうした知識と技術の総体は、スラム街固有のあらゆる直感、ノウハウ、創意工夫に比べればいまだ部分的でしかない。われわれがメトロポリスの砂漠にふたたび住みつき、中期的な蜂起を持続させようとするなら、そうした知恵をさらに発展させていかなければならない。
 流通が全面的に遮断された場合、いかにして意志の疎通をはかり移動するのか。農村部での食糧生産を復活させ、それを六〇年前の人工密度に耐えうるレベルにまで立て直すにはどうすればよいのか。いかにしてコンクリートの空間を都市菜園に変えていくか。アメリカの輸出禁止措置やソビエト連邦の崩壊に耐えることのできたキューバが行なったように。

形成し、形成されること

 市場民主主義に許可される余暇を使い果たしてしまったわれわれには、何が残されているのだろうか。なぜわれわれは、ある時期から日曜日の朝にジョギングにでかけるようになったのか。空手マニア、さらには日曜大工や釣りや菌類学に夢中の人びとをとらえているものは何か。そうした所作は、無為を完璧に埋める必要性ではないとすれば、労働力や「健康資本」としての自分を取り戻す必要性以外の何だろうか。ほとんどの余暇はその不条理に満ちた本性を容易に捨て去り、余暇以外のものになってしまうかのようである。ボクシングはつねに、テレビのチャリティー企画向けの実演や、大観衆のために催される試合に限定されてきたわけではない。たとえば、二〇世紀初頭の中国は押し寄せる入植者によって分断されていたうえに、長びく干ばつのために飢餓に陥っていた。そこで、数十万人にのぼる貧しい農民が無数の青空ボクシングクラブを組織し、金持ちや入植者から略奪されたものを取り返したのである。それは義和団ボクサーたちの叛乱だった。いまよりも物騒で先の見えない時代にわれわれに必要となってくるものを学び、それを実践するのに早すぎるということは決してないだろう。われわれは現在のところメトロポリスとその医療、農業、警察に依存しきっており、自分の身を危険に晒すことなく攻撃を仕掛けることさえできない。このような脆弱さは、口に出して言わないまでも意識のうえに定着しており、現行の社会運動をすすんで自己規制するとともに、危機を恐れ「安全」を求めさせているものである。ストライキが革命の地平を正常な状態に変えてしまうのもこの脆弱さのためである。こうした宿命から逃れるためには、長期にわたる一貫した実習プロセス、多様かつ大規模な実験が必要となる。すなわち、闘い、錠をこじ開け、怪我だけでなく口狭炎の治療をし、海賊ラジオ局を立ち上げ、ストリート食堂を設営する術を身につけ、そうするなかで正確に狙いを定める方法を知ることである。さらには、散逸した知識を結集し、戦時下農法を作り上げ、プランクトンの生物学や土壌成分を理解し、植物群集を学び、失われた直感やあらゆる習慣を復活させ、直接的な環境とのつながりを可能なかぎり取り戻し、そのうえでそうした環境がつき果てる限界を見極めることが必要である。食料や治療を象徴的な量以上に獲得しなければならなくなる日のために、それはいますぐ始めなければならない。

領土テリトリーを創出すること。不透明な領域を増やすこと

今日ますます多くなる改良主義者たちの合意によれば、「石油産出量のピークを間近にして」、「温室効果ガスの排出量を減らすために」、今後は「経済をふたたび地域化」せねばならず、さらには地域による供給や流通経路の短縮を促進し、遠隔地からの安易な輸入をあきらめる必要がある。彼らが忘れているのは、あらゆる地域的な経済活動の本性とはもぐりで、「非公式な」やり方で行なわれるということである。経済の再地域化というこの単純なエコロジー的措置は、国家の管理からの解放か、さもなければ国家への全面的服従をはらんでいる。
 現在ある領土テリトリーは、数世紀におよぶ警察活動がもたらしたものである。じめじめとした私生活の壁のなかに生をまるごと押し込めようというばかげた希望から、ひとは自分たちの田野の外に追いはらわれ、ついで街路の外、地区の外、最後には建物のホールの外へと追いやられた。われわれにとって領土の問題は、国家にとってのそれとは異なる。領土の維持が問題なのではない。重要なのは、局地的にコミューンや交通や連帯の密度を高めることで、領土があらゆる権威にとって、読めない、不透明なものになることである。領土の占拠ではなく、領土であることが大事なのである
 実践のそれぞれが領土を生み出す。麻薬密売、狩猟、子供の遊び、恋人たち、暴動、農民、鳥類学者、遊歩者の領土。規則は単純である。ある一定のゾーンで重なり合う領土が増えれば増えるほど、領土間での交通が増し、権力にとって掌握しづらいものとなる。ビストロ、印刷所、スポーツルーム、空き地、古本屋ブキニストの露店、ビルの屋上、即席マーケット、ケバブ屋、ガレージ。共謀が十分にありさえすれば、容易にそれぞれの公的役割から逃れられる。ローカルな自律組織は自身の地理学を国家の地図に重ねることで、それを混乱させ無効にする。こうして離脱が実現されていく。

旅をすること、自分たちのコミュニケーション回路を描くこと

 コミューンの原理にとって、地域に根付くことや緩慢さを選び取ることは、メトロポリスやその可動性と対立する手段とはならない。コミューン形成の運動の拡張は、メトロポリスの拡張を密かに出し抜く必要がある。われわれは商業的なインフラがもたらす移動とコミュニケーションの可能性を拒絶すべきではない。ただしその限界を見極めるべきである。そこで十分慎重に、危険のないようにすればいい。はるかに確実なのは、互いに訪問し合うことである。そうすれば形跡を残さず、いかなるインターネット上の連絡リストよりも堅い絆を結ぶことができる。われわれの多くは大陸の端から端へ、さほど問題なく世界中を「自由に行き来する」ことができる恩恵を受けているが、それは共謀の場を連絡させるための無視しえない切り札である。アメリカ人、ギリシャ人、メキシコ人、ドイツ人が密かにパリで出会い、戦略的な議論を交わす時間を過ごせるということは、メトロポリスがもたらす恩恵のひとつである。
 友情で結ばれたコミューン間のたえまない交流によって、コミューンはよくある禁欲的で潤いのない状態に陥らずにすむ。仲間を歓迎し、彼らの自発的行動を知り、彼らの経験について熟考し、彼らが修得した技術を取り入れることは、出口なしの不毛な自省以上のものをコミューンにもたらしてくれる。現在進行している戦争についての見解をつき合わせながら過ごす夕べ、そこで精錬される決定的な何かを過小評価するのは間違いだろう。

徐々に、すべての障害を打破すること

 周知のように、ストリートは無作法な行為に溢れている。ストリートが現実にそうであるところのもと本来そうあるべきところのもののあいだで、警察権力のすべては求心的な力をふるい、躍起になって秩序を回復しようとする。その向かい側にわれわれが、いわば反対の運動、遠心力として存在する。激情と混乱があらゆる場所に出現することを、われわれは喜ばずにはいられない。もはや何を祝うでもない国家の祝日はきまって物騒な結果に終わるが、それもむべなるかな。ピカピカ光っていようがガタがきていようが、都市の路上設備――だが都市とはそもそもどこから始まり、どこで果てるのか――はわれわれに共通の剥奪状態を具現している。それは虚無そのものであり、本当に虚無に帰することだけを求めている。われわれのまわりにあるものをよく見てみよう。すべては好機を待っている。メトロポリスは突如として、一面の廃墟のみが持ちうるような郷愁を帯びはじめる。
 無作法な行為が体系的になり、系統づけられると、それらは互いに合流し、拡散しつつ力を発揮するゲリラとなって、統治不可能性や原始的な不服従をわれわれに取り戻させてくれる。なやましいのは、パルチザンに認められる戦闘的美点のひとつがまさに不服従だという点である。じっさい、怒りと政治は決して切り離すべきものではなかった。怒りがなければ政治は駄弁に終始し、政治がなければ怒りはわめき散らすだけで力尽きる。「激昂した」とか「興奮した」という言葉は、それが本当に威嚇を伴うものでなければ、政治的な意味を持つことはないだろう。

 方法については、以下に挙げるサボタージュの原則をこころに留めておこう。行動における最小限のリスクと最小限の時間、そして最大限の損害を与えることである。戦略で覚えておきたいのは、障害が倒されたとしても完全に沈められていない場合――たとえば解放されてもひとが住めない空間――より強固で手ごわい別の障害がたやすく出現してしまうということである。
 労働者のサボタージュの三つのタイプについてくどくど述べる必要はない。手抜きから順法ストにいたるあらゆる仕事の遅延。機械の破壊ないし機械の運行の妨害。企業秘密の漏洩。これらサボタージュの原則は、工場の社会化という規模の拡大に合わせて、生産現場から流通過程にいたるまで全般的に適用される。メトロポリスの技術的なインフラは脆弱である。メトロポリスの流れは人間や商品を運ぶだけではなく、電線やファイバーや配管のネットワークをとおして情報やエネルギーを運んでいる。そこを攻撃することは可能である。今日、社会機械をサボタージュし、なんらかの結果を生み出すことは、ネットワークを遮断する手段を奪回し、その手段を新たに発明するということである。いかにしてフランス高速鉄道の路線や電気網を使用不可能にするか。どのように情報網技術ネットワークの弱点を見つけ出し、ラジオ電波を妨害し、テレビ画面を真っ白にするか。
 手ごわい障害物だからといって破壊不可能とみなすのは間違っている。そこにはプロメテウス的な何かがある。盲目的な主意主義とは異なる、火の奪取のような何かが。紀元前三五六年、ヘロストラトスは世界七不思議のひとつと言われたアルテミス神殿を燃やした。退廃の極みであるわれわれの時代において、神殿の壮麗さをなしているのは、それがすでに廃墟であるという陰鬱な真実のみである。
 虚無を消滅させることはいささかもみじめな労役ではない。行動を起こすことで、そこに新しい若者層が出現する。すべてが意味をもち、突如として空間が、時間が、友情が秩序立てられる。われわれはそこで、どんな木材を使ってでも矢をつくり〔=あらゆる手段に訴えて〕、その用途を見い出す――われわれこそ矢なのである。時代の悲惨において、「何もかもヤッてやる」ということが――もちろん理由があってのことだが――おそらく最新の集団的誘惑となるだろう。

可視性を避けること、匿名性を攻撃的なポジションに転じること

とあるデモでのこと。組合活動家の女性が、顔を隠してショーウィンドウを破壊した匿名者の覆面をはぎとった。「隠れたりせず、自分のすることに責任を持ちなさい」。可視的であるとは、発見されうるということである。つまりなによりも脆弱な存在だということである。あらゆる国の左翼は、自分たちの大義とするホームレスや女性や不法移民の大義が聞き入れられることを望み、彼らを「可視化する」ことをやめない。左翼が行なっているのは、本来やるべきこととは正反対である。見える存在になるのではなく、われわれが追いやられた無名性をアドヴァンテージへと転化すること、共謀や夜間の行動、覆面をつけた行動により、匿名性を攻略不可能な攻撃ポジションへと変えること。二〇〇五年一一月の炎はその格好のモデルを提供している。そこにはリーダーも要求も組織もなかったが、言葉とみぶりと共謀があった。社会的に無であるのは屈辱的な条件ではないし、承認の欠如という悲劇――だが一体、誰によって承認されたいというのか――をもたらすものでもない。逆にそれは、最大限の行動を可能にする自由の条件となる。悪行には署名をせず、適当な略字名だけを示すこと――短命ではあったが、われわれはまだBAFT(タルトレ反警察旅団) 3を忘れてはいない――は、そうした自由を維持するための方法である。「二〇〇五年一一月の暴動」の首謀者として「郊外的」主体をでっちあげることは、明らかに、体制側が講じた最初の防御策のひとつだろう。この社会で何者かである連中の顔を見れば、何者でもないことの喜びが理解されるだろう。
 可視性は避けるべきである。しかし、闇に紛れた力であっても可視性を避けては通れない。重要なのは、力としてのわれわれの出現を、時宜を得るまで引き延ばすことである。なぜなら、可視化を遅らせるほど、われわれはより力強い存在として出現するからである。いったん目に見える存在になると、われわれに残された時間は少ない。われわれが短期間のうちに体制を粉砕できる状態にあるか、体制のほうがわれわれをたちどころに制圧してしまうかのどちらかである。

自衛を組織すること

 われわれは占領下に生きている。警察的な占領下である。路上で検挙される不法移民、大通りを縦横無尽に走る覆面パトカー、植民地仕込みの技術で鎮圧されるメトロポリスの街区、「若者グループ」に敵対する内務大臣4のアルジェリア戦争下のごとき仰々しい演説。こうした事態はわれわれが警察的な支配下にあることを日々想い起こさせる。これ以上やられっぱなしにならないために、自衛手段を整える理由は十分にある。
 コミューンが拡大し波及するにつれ、権力は徐々にコミューンの構成要素を取締りのターゲットにしていく。権力によるこの反撃は誘惑や懐柔のかたちをとり、最終的にはあからさまな暴力として発動される。自衛はコミューンにとって、理論的にも実践的にも自明の共通認識となるはずである。逮捕に備え、強制退去の企てに対してすみやかに人数をかき集め、仲間の誰かをかくまえるようにしておくことは、来るべき時代においては過剰反応ではなくなるだろう。われわれの基盤をたえず作り直すわけにはいかないのだから、弾圧を告発するのをやめ、弾圧に備えることである。
 ことは単純ではない。なぜなら、一般の人びとが警察の仕事に加担させられるにつれ――密告、市民自警団への一時的参加――警官隊は群衆に紛れてしまうからである。今後、暴動時でさえも適用される万能の警察介入モデルは私服警官である。最近の反CPEデモにおいて有効に機能した警察の行動も私服警官によるものだった。彼らは群集に紛れて自分たちの本性を現すきっかけをうかがい、トラブルの発生とともに催涙ガスや棍棒やフラッシュボールや尋問を繰り出した。こうしたすべては、労働組合とデモ警備隊との連携で行なわれた。私服がいるかもしれないというたんなる危惧から、デモ参加者のあいだに「あれは誰か」という疑心暗鬼が生まれ、行動が麻痺する。デモとは数を示威する手段ではなく、行動のための手段と認めたうえで、われわれは私服警官の正体を暴く能力を養い、彼らを追い払い、万一のときには逮捕されようとしている者を彼らから引き離さねばならない。
路上で警察は無敵ではない。警察には自己組織化し、訓練し、たえず新しい武器をテストするための諸手段がそなわっているにすぎない。それに対してわれわれの武器は、つねに初歩的な素人仕事によるものであり、しばしばその場で即興的に作られる。それはいかなる場合においても銃の力に対抗するためのものではない。われわれの武器が狙いとするのは、距離をとり、注意を逸らし、心理的圧力をかけ、ふいをついて逃走経路をこじ開け、勢力範囲を押し広げることである。複数の場所で同時に攻撃することができ、なおかつ主導権をけっして手放すまいとする流動的複数性が実現されるならば、都市ゲリラに対抗すべく準備されたフランス憲兵隊のイノヴェーションをすべてかき集めたところでその流動的複数性に即座に対応することなどできないし、今後も到底不可能であるにちがいない。
 言うまでもなく、コミューンは警察の監視や捜査、科学警察5や諜報活動に対して脆弱である。イタリアのアナキストやアメリカのエコ戦士6たちの大量逮捕は、情報の傍受によって可能となった。DNA採取はあらゆる拘留において行なわれ、日々データファイルが補充されていく。バルセロナであるスクウォッターが捜し出されたのは、彼が配っていたビラに指紋が残されていたからだった。ブラックリストの作成方法は、とりわけ生体認証技術によって不断に進歩している。そしてもし電子身分証明書が施行されれば、われわれの務めはより困難にならざるをえないだろう。パリ・コミューンはブラックリストの問題を部分的に解消した。叛徒たちはパリ市役所を焼き払うことで、民事身分記録を消滅させてしまったからである。コンピュータ化されたデータを永遠に破棄する手段は、これから模索しなければならない。


  1. 「ピケテーロ」は一九九〇年代後半に金融危機下のアルゼンチンで生まれた社会/政治運動集団。ピケッティング(デモのために行なう道路封鎖)を闘争の手段としていたことに因む。なおピケテーロの七〇パーセントは女性。

  2. メタルロップ社は重軽金属製錬を扱う企業。土壌汚染がスキャンダルとなり、二〇〇三年に子会社のメタルロップ・ノールは大量解雇を行なった。

  3. タルトレ(Les Tarterêts)はパリの南部エソンヌ県にある低所得者向け公共団地集合地区。フランスにおける「郊外問題」が集約されている、とみなされる。二〇〇六年九月に二名の機動隊員がタルトレ地区で攻撃された事件において、三名の男性が懲役六年から八年の実刑判決を受けた。

  4. 執筆当時の内務大臣は二〇一〇年現在大統領のニコラ・サルコジ。

  5. フランス科学警察(la police scientifique)とはIRCGN(国家憲兵隊犯罪研究所)とINPS(国立科学警察研究所)の総称。前者は国防省、後者は内務省の管轄にある。

  6. 「エコ戦士」といえば森林伐採現場や空港で座り込みなどの直接行動を行なうというイメージが強いが、直接行動に対するアプローチが必ずしもその定義に関わるわけではない。グリーン・キャピタリズム企業の社員などが「エコ戦士」である場合もある。

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