焦点を合わせる

焦点を合わせる 二〇〇九年一月

万人が意見を一致させている。大変なことになりそうだ。かつて居酒屋で語られていたことが、いまや国会議事堂のロビーで深刻そうに、あるいは勇ましげに語られている。連中は嬉々として数々のリスクにそなえ、予防措置のメニューをつぶさに並べて警察の警戒網を厳重に張り巡らせている。その措置は、新年のお祭り騒ぎのなかで決定的な様相を呈していた。「牡蠣まぬけどもが出るのも今年で最後だ!」新年の祝祭がいつもながらの混乱へと完全に転化することを防ぐために内務大臣アリオ=マリーがしたことといえば、三万六〇〇〇人におよぶ警官と一六台のヘリを緊急動員することだった。一二月に高校生たちのデモが行なわれたとき、大臣は不安におののきながら、ギリシア暴動からのわずかな伝染の兆候も見逃すまいとうかがっていたのである。不安をなだめようとする政治家たちの話しぶりからはっきりと聞き取れるのは、彼らがいまや公然と戦争の準備を始めた物音である。疑いようもなく、その準備はあからさまに、淡々と、実務的に勧められており、治安維持という口実すら語られない。
 新聞はこぞって突然おとずれた不安の原因を並べたてている。経済危機は言うまでもなく、それにともなう失業率の爆発的な増加、社会政策の不能とそれが引き起こす絶望の数々、ケルビエルやマドフのスキャンダル1。中産階級の子供たちですら、労働者にも市民にも鋳造できなくなった学校制度の破綻。若者のあいだには不満が広がり、いかなる政治代表も彼らを理解できずにいるという。若者にとって、彼らのために用意された無料の貸出自転車〔「ヴェリブ」。パリ市のレンタル自転車公共事業〕など破壊の対象でしかない。
 こういったすべての不安要因にもかかわらず、それらは克服しがたいとは思われていないかもしれない。なぜなら今日における統治の支配的なやり口というのがまさに、そうした危機的状況を管理経営することにあるからである。だがじっさいのところ、権力が直面しているのはいつもながらの危機ではないし、慢性的な諸問題の積み重なりでも、多かれ少なかれ予測された混乱でもない。政府は特異な脅威に直面している。その脅威とは、新たな闘争のかたち、新たな立場の出現であり、それらはまさしく管理経営されること自体を斥けようとするものなのである。
 あらゆる場所でこの脅威である者は、今後の運動や抗争の大義や見込みについて意味もなく自問する必要はない。運動や抗争はいずれかならず起こるからである。むしろこう問うべきだろう。すなわちギリシアに到来したカオスは、フランス的状況のなかで、いかなる共鳴を引き起こすのだろうか? ここフランスでの蜂起は、彼方で発生した出来事のたんなる移し変えのようなものと考えることはできない。現在、社会戦争は世界規模で生起している。だがそれは局地的な性格を失ってはいない。暴動が全面化するなら、フランスでの爆発はほかとは異なる要因によって引き起こされるだろう。
 ギリシアの暴徒が相手にしていたのは弱体化した国家であり、その闘争は人びとから高い支持を得ていた。
 忘れてはならないが、三〇年前のギリシアにおいて、民主主義は、軍事独裁体制に対する政治的暴力の行使によって回復されたのである。その記憶がなおも生々しく残っている大半のギリシア人にとって、そうした暴力の行使は自明のことだった。ギリシア社会党の大御所でさえ、若い頃は火炎瓶を投げていたのだ。それに対して、ギリシアの古典的な政治は、政治的暴力の行使にうまく対処するさまざまな方法をわきまえている。連中は、暴動のさなかに、馬鹿げたイデオロギーを流布させる術を知っていたのである。ギリシアの戦闘に決着がついたのは――いかに警官に埋め尽くされていようとも――路上ではない。それ以外の場所で戦闘の中和化が進められたのある。じっさい、そうした古典的政治、同じことのくり返し、思考停止の思考、閉じた小世界ほど、致命的で、われわれを消耗させるものもない。
 フランスの官僚的な社会党員がどれほど意気込もうとも、彼らは国会でしか活躍しない禁欲的な工作員でしかなく、義務感だけの退屈な連中である。ここフランスでは、何かしら政治的な強度を有した出来事は、どれほど些細なものであれ、全員一致でそれを潰しにかかる。それゆえつねに、暴徒と市民が対立するものと考えられているのである。そして偽りの対立が延々と引き出される。一般利用者とストライキ者、ブロカージュに反対する者と人質犯が対比され、善良な人間以外はろくでなしと決めつけられる。言語学的とも言えるこうした対立操作は、軍事的と言えるほどの措置をともなう。こうしたやり口のいくつかが示されたのは、二〇〇五年一一月の暴動においてであり、また文脈は異なるが、二〇〇七年秋の社会運動においてである。ピケをはるナンテール大学の学生を強制退去させようとする警官機動隊に対して「行けフランス代表レ・ブルー」と叫び、拍手喝采するスト破り学生。だがこうしたイメージは、われわれに残された未来について、ごくわずかな見取り図しか与えてくれない。
 言うまでもなく、フランス人の国家に対する執着――普遍的な価値を保証し、災厄から身をまもる最後の砦としての国家――は病であり、そこから抜け出すことは困難である。だが、国家とはひとつのフィクションにほかならず、これ以上存続することなどできない。政権をにぎる者ですら、国家をしだいに無用の長物のように感じはじめている。なぜなら少なくとも、武力を行使してまで闘争を引き受けるはめになるのは彼ら自身だからである。彼らはなんのためらいもなく、郊外暴動を鎮圧するため、さらには郵便物仕分局を占拠する局員を排除するために、対テロリスト先鋭部隊を投入する。福祉国家の崩壊が進むにつれ、治安を求める者と、それを拒否する者とのあいだの衝突はますます鮮明になっていく。フランスの政治がこれまで失効させてきたすべての諸力が、いまや猛然と吹き荒れようとしている。フランス政府はみずからが抑圧してきたすべてによって打倒されるだろう。われわれは来たるべき運動に期待することができる。そうした運動は、社会の解体がますます進行するにつれ、必要なニヒリズムの息吹を与えてくれるだろう。そしてかならずや社会を、これまでとはまったく別の限界にさらすことになるだろう。
 革命的運動が広がるのは共鳴によってであり、伝染によってではない。ここで構成されるものは、彼方で構成されたものが発する衝撃波に共鳴しているのであり、共鳴する身体は、それぞれの様態に即して共鳴している。蜂起とは、ペストの蔓延や山火事の拡大のようなものではない――すなわち起点から少しずつ線的に広まるプロセスとは異なる。蜂起はむしろ音楽のように具現する。出来事がたとえ時空間的に分散していても、各出来事の振動はリズムとなって鳴り響き、音はいっそう厚みを増す。そして、もはや誰もノーマルな状態に戻りたいとは思わないだろうし、そうした状態を想像さえしなくなる。
 帝国について語るとき、われわれはそれを権力装置と呼ぶ。それは、状況が革命的なものとなるあらゆる生成を、予防的、外科手術的に押さえ込むためのものである。この意味において、帝国はわれわれが対峙している敵ではない。帝国とは強制的なひとつのリズムであり、現実を少しずつ流出し、流通させるひとつの流儀なのである。それゆえ帝国は、世界のひとつの秩序というよりも、その悲しげで重々しい軍隊調の流れにほかならない。
 われわれが蜂起集団として思い描いているのは、ギリシアやフランス郊外との調和を探し求め、帝国の音楽とはかけはなれた楽曲を粗っぽく奏でる者たちであり、帝国の現実とは似ても似つかない現実平面を素描する者たちである。
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 いまや広く知られているように、危機的状況とは、支配が再編成されるための恰好の機会である。それゆえサルコジはさほど嘘をつくそぶりも見せず、経済的破綻が「世界の終わり」に等しく、フランスが二〇〇九年から新たな時代に入るだろうと公言したのである。だが経済危機などというでたらめも、結局のところ、ひとつの新たな意匠ではあるだろう。われわれは、一致団結して社会的不平等や地球温暖化と戦うといった美しい叙事詩に立ち会うことになるのだろうか。しかしあなた方も認めるだろうが、危機のなかで生まれ、危機しか知らないわれわれの世代――経済危機、財政危機、社会危機、環境危機――は、そうした物語をおいそれと信じたりしない。われわれはもう危機という策謀には騙されないし、「ゼロからの出発」だとか「少しのあいだ痛みに耐えるだけでよい」などという言葉にも踊らされない。じつのところ、失業率の惨憺たる数字を聞かされても、われわれにはなんの感情も起こらない。世界を維持する唯一の方法が、その破局を際限なく管理経営することであるような現在、危機とは統治のための一手段である。
 国家の背後に隠れた連中は、われわれが動員される姿を見たがっているのだろうし、さらにありそうもないことだが、われわれが団結して社会の修復に乗り出すのを期待しているのだろう。ただし問題なのは、われわれが、そうした動員に合流することにはげしい嫌悪を覚えるということである。人びとが、むしろ資本主義を徹底的に打倒するために決然と立ち上がる、それは十分にありえる。
 戦争状態にあるのは、社会のさまざまな管理経営の方法をめぐってではない。妥協も和解も許されない、幸福についての諸観念とそれらの世界をめぐってである。権力はこのことを知っているし、われわれもそうである。いまだ活動家を続ける連中は、ますます勢力を増し、識別不可能になっていくわれわれを、頭をかきむしりながら見ている。そしてわれわれを、連中のちっぽけな頭のなかのさらにちっぽけな引き出しのなかに閉じ込めておこうとする。そうしながらも連中はわれわれに手を差し出す。だがそれは、連中の挫折や感覚麻痺、無気力な問題意識の数々でわれわれを窒息させるためなのである。選挙やら「過渡的段階」やらが取り沙汰されるそのたびに、連中は、われわれをコミュニズムの可能性から少しずつ遠ざけることしかしない。だが幸いなことに、ひとは裏切りや失望を我慢しつづけたりはしない。  過去はわれわれにおびただしい数の誤った解答を与える。それは、問題自体が間違ったものであることを、われわれに気づかせないようにするためである。
それゆえ選択する必要はない。
自発性へのフェティシズム
あるいは
組織によるコントロール
活動家ネットワークをブリコラージュすること
あるいは
ヒエラルキーによる統制
いま絶望的に行動すること
あるいは
今後を絶望的に待ち望むこと
地獄から遠ざかろうとすればするほど、当の地獄に似てきてしまう天国のために、いまここで生きるべきことや実験すべきことを括弧に入れること
あるいは
ニンジンを植えるだけで悪夢から脱出できると信じ込むあまりに、結局は死者に囚われてしまうこと
厄介な選択それ自体
 組織は、自己組織化することへの障害である。
 実のところ、われわれがそうであるところのもの、われわれが行なうこと、われわれが生成するもののあいだに隔たりはない。だが、なんらかの組織――政治的、組合的なものであれ、ファシスト的、アナキスト的なものであれ――が創られるときはかならず、こうした実存の諸相は事実上分断されてしまう。そのうえで、組織はみずからの優越をでっちあげ、その分断に対する唯一の打開策であるかのように、自身の馬鹿げた形式主義を提示するのである。自己組織化すること、それは無力に構造を与えることではない。それはなにより絆を結ぶことであり、ニュートラルではなく、むしろ極度に偏った絆を結ぶことなのだ。自己組織化の度合いは、物質的かつ霊的な共有の強度によってはかられる。
 もうすでにもう始まっているのだ。それゆえ「生きていくために物質的に自己組織化すること、攻撃するために物質的に自己組織化すること」。望むらくは、いたるところでコミュニズムについての新たな観念が練り上げられることである。バーの暗がり、印刷所、スクウォットハウス、階段室、農家、スポーツジム。あらゆる場所で攻撃的な共謀が生まれうる。そうした結託から、世界はより鮮明なかたちをとって唐突に現出するのである。かけがえのないこの共謀が力を発揮するための手段は、共謀自体のなかに含まれていることを見落としてはならない。
 ここにこそ時代の真に革命的な可能性が存する。抗争はますます頻繁に起こるようになった。それが恐るべきなのは、一回一回の抗争が、そうしたたぐいの結託が結ばれる機会になるということである。結託は一時的なものとして終わる場合もあるが、永続的なものとなる場合もある。ここには確実に、一種の蓄積のプロセスがある。無数の若者がこの世界をサボタージュし、離脱しようとしている現在、これら若者たちの首謀者が誰であるとか、資金提供の組織がどこかにあるはずだとか、あるいは若者は何も気にかけないのんきな連中だとしか考えない人間は、警察と同じぐらい馬鹿げた思考の持ち主だろう。
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 二世紀にわたる資本主義と商業的ニヒリズムの席巻は、自己、他者、世界からの疎外を最大限にまで推し進めた。個人というあのフィクションは、それが現実化したのと同じ速さで崩壊してしまった。メトロポリスの子供としてわれわれは断言できるが、剥奪状態が極まったときにこそ、つねに暗黙のうちに企てられてきたコミュニズムの可能性がひらかれるのである。  結局のところわれわれは、人類全体とともに戦争状態にあるのである。さらには人間という理念とともに。  したがってコミュニズムとは、前提として出発すべきものであると同時に実験すべきものである。ひとつの感受性を共有すると同時に共有を練り上げること。コモンを自明のものとすると同時にひとつの力を構築すること。支配に対する綿密で大胆な襲撃を生み出すマトリクスとしてのコミュニズム。コミュニズムとは、帝国の治安化に抗する世界中の人びと、商品の支配と相容れないすべての連帯、戦争を不可避のものとして引き受けるすべての友愛の名であり、呼びかけである。コミュニズム。この言葉が慎重に用いられるべきなのは分かっている。だがそれは、この言葉が、さまざまな言葉の氾濫のなかにあって、もはや流行らないだろうからではなく、われわれの最悪の敵がこの言葉を摩耗させたからであり、いまもそうだからである。強調しておこう。いくつかの言葉は戦場のようなものであり、その言葉の意味は、革命的であれ反動的であれ、激越な闘争のすえに勝ち取られるべきものである。 古典的政治から離脱するということは戦争を引き受けるという意味だが、戦争は、言語活動の領域でも行なわれている。より正確に言えば、言葉、みぶり、生が不可分なものとして結ばれるその方法をめぐってということである。『来たるべき蜂起』の執筆に加わっだろうという名目から、連中が躍起になって農村の若いコミュニスト数名をテロリストとして投獄したのは、若者たちが「思想犯」とみなされたからではなく、行為と思考をひとつの生存のうちに保持する流儀を体現しているとみなされたからである。それは一般に許容されないことなのである。  連中が若者たちに罪を負わせようとするのは、若者たちが何かを書いたからでも、メトロポリスを貫通する神聖不可侵な流れを物質的に攻撃したからでもない。若者たちが、厚みのある思想と政治的見解にもとづいてメトロポリスのフローを襲撃したのだろうと憶測されたからである。そして、ここでなされたひとつの行為が、帝国の砂漠のごとき一貫性コンシスタンスではなく、もうひとつの世界の一貫性に即した意味を持ちえただろう、と考えられたからである。対テロリズムは「犯罪結社」(association de malfaiteur)の生成を未然に防いだ、と主張する。しかしじっさいに対テロリズムが襲撃したのは、状況の生成である。身柄を拘束された食料品店の店員それぞれの背後に、何らかの凶悪な意図が控えており、各人の思想の背後に、その思想が要求する行為が控えているという可能性。ひとつの政治思想が広まるという可能性。その思想は、匿名で誰もが合流可能であり、統制をこえていたるところに撒かれるもの、表現の自由などという狭苦しい小部屋のなかに閉じ込めておくことのできないものである。
権力に対して最初に野蛮な攻撃を仕掛けるのは若者たちだろう。このことに疑いの余地はほとんどない。その意味では、二〇〇一年春のアルジェリア暴動から二〇〇八年のギリシア暴動までのここ数年の出来事は、ひと続きの警告のようなものでしかない。三〇年から四〇年ほど前、親の世代のモラルに反抗した連中は、いつものように、現在の闘争を若者特有の予測可能な現象のひとつ、さもなければ新たな世代間のコンフリクトに還元してしまおうとするにちがいない。  「世代」などというものに未来があるとすれば、それはただ、前の世代になるということである。それは相変わらず、墓場につづく道を進むというだけである。
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 すべては「社会運動」から始まるのが伝統だという。とりわけ、いまだ解体しつくされていない左翼が、殊勝に路上に出て、信頼をふたたびかちとろうとしているこの現在においては。だが、左翼はもはや路上を独占する存在ではない。くり返される高校生のデモの様子を見るだけで分かるように――左翼が厚かましくも支持を表明しているすべてのものについてもそうだが――運動が掲げる愚痴のごとき社会的要求と、行使される暴力の度合いないしその決然とした態度のあいだには、溝が穿たれており、それはますます広がっていく。
 われわれは、その溝をいっそう押し広げなければならない。
 もし「社会運動」が次々と後を追うように継起し、最後に何も残らないように見えたとしても、われわれはそこに存続するものを看取しないわけにはいかない。出来事が生じるそのたびに、連中は法令の撤回を求めるなどと何かしら口実をもうけて、ばかばかしくも時間を限定してしまう。だが、そうした時間性に取り込まれなかった事がらが、導火線のように続いている。われわれは、ひとつの力のような何かが、間歇的に、リズムとなってはっきりと現れてくるのが分かる。それは与えられた時間性に従うことなく、静かに時間を内破していく。
 もはや、来たるべき崩壊を予測すべき時ではないし、嬉々としてその可能性を示す時でもない。崩壊がいつ到来しようとも、重要なのはそれに向けて準備することである。蜂起がどうあるべきかについてプログラムを構想する必要はない。そうではなく、これまでつねに蜂起として存在してきたはずのもの、つまり若者の生の飛躍であるとともに人民の知恵でもあるものに、叛乱の可能性をつれ戻すことである。プログラムの不在は、それなしで生きる術を知る者にとっては困難どころかチャンスである。蜂起する者にとってその不在は、最も重要な事がら――発意性イニシアティヴを保ちつづけること――を保証してくれるものなのである。それでも、点した炎を絶やさないように、ある種のまなざしと戦略的な熱狂状態――機会の到来とともに、そしていまこの時も、決定的なものとして、決意の絶え間ない湧出として出現する――を生じさせ、維持しなければならない。
 つい最近まで時代おくれで滑稽なものと思われていたいくつかの問いがふたたび浮上してきている。そうした問いを捉えることが必要である。ただし、最終的な解答を与えるためではなく、それを生きた問いとして蘇らせるために。ギリシア暴動はいくつかの問いをあらたに提起した。このことは、ギリシア暴動が示した決して小さくはない功績のひとつだろう。
 全般的な暴動という状況は、どのようにして蜂起的状況へと生成するのか? 警察を持続的な敗退に追い込み、路上が獲得されたなら、何をすべきか? 議会をいつも襲撃する必要はあるのか? 事実上、権力を局所的に廃するとは何を意味するのか? いかに自己決定し、どのように生きていくのか?
 どのように再会するか?
パリ、二〇〇九年一月二二日

  1. ジェローム・ケルヴィルはフランス大手金融機関ソシエテ・ジェネラルの若手所属トレーダー。二〇〇八年一月、彼の不正取引により四九億ユーロの損害が出た。バーナード・マドフはアメリカ中堅証券会社社長、ナスダック元会長。その投資ファンドは五〇〇億ドルの損失を隠しながら高利周りを約束し、巨額詐欺の容疑で二〇〇八年一二月FBIにより逮捕、被害額は三三〇億ドルと言われる。

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